松屋電工株式会社

創業者 宮本寛二

変化の先を行きたい

昭和31年、和歌山に日本初のスチール製学校机が誕生した。
それまで主流であった木製の学校机は、戦後の食文化の変化に伴い、学生の急激な成長に合わず、姿勢の悪化問題が大きくなり、スチール製学校机は爆発的に普及していった。

松屋電工株式会社 創業者 宮本寛二。

スチール製学校机の開発に魂を燃やした人物である。

創業者 宮本寛二

率先垂範

宮本寛二は、和歌山県有田郡宮原村にて、父 宮本米太郎、母 八重乃の次男として誕生。幼少の頃の3年間は、伯母コトから躾を受けた。

「人を褒めても悪口は言うな」
「呼ばれたら「はい」と答えて同時に立ち上がること」
「言われたことは最後までやり切ること」
「敏感で機転の働く人間になれ」

伯母コトから多くの学びを得て成長した寛二は、14歳にして自らの生涯に大きな影響を与える人物そして仕事に出会う。
島田クエン酸工場の島田源(みなもと)氏。彼の無駄のない的確な仕事ぶりに感動し、身を粉にして働いた。

率先垂範
自らの行動が周りを突き動かす力になり得ると、この時、身をもって教えられた。
仕事と学業。希望に燃える日々であった。

若かりし頃の宮本寛二

不撓不屈

しかし、無常にも時代は戦争へと突き進んでいく。
寛二もまた旧満州へ出征した後、終戦を迎え、シベリアに抑留されることになる。

気温マイナス58度
体感温度マイナス75度

筆舌に尽くしがたい過酷な環境の中、苦しい労働を強いられながらも寛二は「これは誰にも”奪われることのない”体験だ」と絶望を希望に変え、終戦から2年後ようやく日本へと帰還することとなった。

昭和22年、兄 宮本穣(ゆたか)が経営する松屋電工の前身である松屋木工製作所で仕事をはじめる。
6年後の昭和28年、2度にわたる大水害により工場は壊滅的な被害を受けすべてを失う。
お客様と交わした納品期日を守るためにと、寛二は我が身の命も省みず、「いかだ」で川を渡った事もあった。

今までの職人便りの生産方式には限界がある。
寛二が大量生産方式へと転換する。
困難な課題を乗り越え、会社は大きくなった。

決して順風満帆とは行かなかったものの、「大難は大善のチャンス」と持ち前の決断力をもって改革を繰り返し、不撓不屈の魂で何事も乗り越えてきた。

水害直後の松屋木工製作所

日本初のスチール製学校机

昭和31年、寛二はついに日本初のスチール製学校机の開発へと踏み出す。
終戦後、日本の食文化は大きく変わり、子供の体格は急激に成長。旧来の学校机では勉強に支障を来すようになり、当時の文部省は3,000万人の学校机に頭を痛めていた。
木製品を作りつつも、元来、鉄好みであった寛二はスチールで商品を作りたいといつも頭に描いていた。

そんな時、近隣の旧吉備町で近代的な小学校の建設が始まり、そこへ納めるスチール製学校机の製品化に取り掛かった。
依頼主である役所との度重なる交渉。
製造ノウハウの研究。
材料の手配。
すべてが未知の分野への挑戦であった。

兄 穣(ゆたか)からは「納期に間に合わないから木製に変えよ」と最後まで言われ続けたが、寛二の終始一貫絶対やりきる決意は変わらなかった。
「絶対に作り上げてみせる」
若手の職人たちと共に、徹夜同然の作業を1週間以上続け、無事、スチール製学校机を納めた。

最初に開発した学校連結机イラスト

想いを受け継ぐ

大きな成功を掴んだ寛二だったが、それは大きなご縁に恵まれた結果でもあった。

「どんな人であっても、自分一人でやれる事はたかが知れている」

寛二はそう言って、常に周囲への感謝を忘れなかった。
また 成功を収めてもなお、何事にも挑戦する意欲が枯れることは無かった。

松屋電工の日高工場では、今なお寛二が開発した天井収納階段が作られている。
建設現場において1人でも容易に設置できる天井収納階段。
使われる施主様、
設置される施工業者様、
双方に優しく作られている。

宮本寛二
平成29年8月11日永眠

その生涯を通して、希望と目的がある限り努力次第で道は自然に開けてくるのだと、身をもって示した寛二。
「わたしの挑戦は死んだ後も続く」とも口にしていた寛二に、もう安心して下さいと胸を張って言える日がくるように。
宮本寛二の覚悟と大志を受け継ぎ、松屋電工は変化のさらにその先へと進みます。

感謝 宮本寛二